ピカソからのアドバイス
国内外で高く評価される画家である松井守男さん。
武蔵野美術大学を首席で卒業した彼は、意気揚々と憧れの地パリで創作活動を開始します。
そこで待ち受けていたのは絶望と感激でした。
嫉妬から罠にかけられる
留学したフランス、パリ時代を振り返りこう語ります。
出る杭は打たれると言う格言はパリでも通用するんです。美術学校で頭角を現してくると、嫉妬や憎悪がすごい。しかもギロチンの国だから、並じゃない凄まじさです。
フランス人のおおらかで人生を謳歌することを優先する、私たちが持つステレオタイプなイメージとかけ離れていますね。
そして、松井さんへの嫉妬がピークに達したとき、ある罠にはめられてしまいます。
美術学校のフランス人の同級生が松井さんに言いました。
「お前は教授のサンジェ先生に気にいられているから、先生はお前の言うことを聞くだろう。サンジェ先生に質問したいことがあるからお前名義で手紙を書いてくれないか?」
「俺は手紙を書くほどにフランス語はまだ熟達していないけど。」
「文書は私が書くから君はサインだけしてくれればいい。」
それならということでその願いに応じた松井さん。
チラリとも疑わず承諾してしまいました。
数日後、松井さんにサンジェ先生から烈火のごとく怒りの手紙が来ました。
そして手紙の最後には、明日から学校に来るなと書かれてありました。
後で分かったそうですが、同級生が書いた手紙にはサンジェ先生の批判が書いてあったそう。
嫉妬に駆られた同級生の悪だくみによって異国の地で放り出されてしまった松井さん。
途方に暮れるしかありませんでした。
ダメもとのお願い
美術学校から放り出された松井さん。
後にこの悪だくみがわかり、ピニョンという人物が松井さんに対し、お詫びに何かプレゼントしたいと言ってきました。
ピニョンはサンジェ先生の友人で、今となっては学校に戻すわけにはいかないけど、それでも埋め合わせをさせてほしいという申し出でした。
「プレゼントをくれるならならピカソに会わせてくれ。」と松井さん。
そんな荒唐無稽なお願いをしたのには理由があります。
というのは、ピカソが生涯で最も愛した女性はピニョンの奥さんだったからです。
つまりピニョンはピカソに影響力があるのを知っていたんです。
でも、まさか会えるとは思っていませんでした。
憧れのピカソとの対面、そして彼の言葉。
松井さんがパリに行った最大の理由は、そこにピカソがいたからでした。
画家と言うのは、例えばシャガールのように自分の画風を確立すると、それだけで行くのがほとんどだそうです。
しかし、ピカソは違いました。具象から始まって、青の時代がありキュービズムの時期がありというふうに、画風を変えて求めるものを追求していく。松井さんは、ピカソの自由奔放さに憧れていました。
だからこそ、ピカソに会えるという念願が叶って胸が震えました。
当時を回想してこう語ります。
日本じゃ考えられないでしょうね。巨匠と呼ばれる人は無名の若者なんか鼻もひっかけない。その方が逆に権威がつくと言うのが日本の画壇ですから。
自分の権威にあぐらをかき、一つ一つの作品に自分をかけて真剣勝負していない。それが日本の巨匠の姿です。だから日本の柄は国内でしか流通しないし、世界の舞台では五流六流扱いしかされないんです。
松井さんがピカソに会ったのはがなくなる数年前で、もう90歳を超えていました。
目に力があるというのか、光があると言うのか、いや、そんな言い方は平凡すぎますね。こいつはいつか自分を追い返すかもしれないと言う、熱っぽい真剣勝負の目でした。
当時を振り返ります。
そしてピカソは松井さんに言いました。
「お前は私のような画家になれる。だが、ピカソになると思うな。他の誰にもなると思うな。松井守男になれ」
と。
こんな言葉をもらって、エネルギーが湧かないはずがありません。
美術学校を追い出された災いが、結果的にエネルギーをもたらすことになったのです。