志村けんはなぜドリフターズに加入できたのか|付き人から正式メンバーへの道のり

日本中を笑わせた志村けんさん。最初から順風満帆だったわけではなく、ドリフターズの正式メンバーになるまでには、意外な回り道がありました。

いかりや長介の自宅に押しかけて弟子入り

1968年2月、高校卒業を間近に控えた志村さんは、ザ・ドリフターズのリーダー・いかりや長介さんの自宅を突然訪ねました。コメディアンになりたい一心の弟子入り志願でした。それから約1年半、志村さんは「ボーヤ」(付き人)を務めます。ところが、「8時だョ!全員集合」が始まる直前に脱走してしまいます。

加藤茶の口利きで復帰

その約1年後、加藤茶さんの口利きでボーヤに復帰。恩人の加藤さんの家に居候しながら過ごします。1972年には仲間とコンビ「マックボンボン」を組んでデビューしましたが、成功をつかめないまま解散。志村さんは再び、いかりやさんのもとへ戻り、ボーヤから再出発しました。

荒井注の脱退と加藤茶の推薦

1974年、体力の限界を理由に荒井注さんがドリフターズを脱退します。いかりやさんは外部から新しい人材を探そうとしましたが、そこで加藤茶さんが強く推したのが志村さんでした。加藤さんはのちに、「志村がいるじゃない。ネタの作り方もドリフの雰囲気も全部知っているので、アイツが一番適任だと思ってすごく口説いた」と語っています。

志村さん自身は、「全員僕の師匠ですから」と、加入当時は不安もあったと振り返っています。

何をやってもウケない日々から「東村山音頭」へ

荒井さんの代わりとして見られる志村さんは、最初は何をやってもウケず、2年ほど悩んだといいます。加藤さんは、「やりたいことを自分から長さんに言わないと、OKしてもらえないぞ」とアドバイスしました。そして生まれたのが、ブレイクのきっかけとなった「東村山音頭」(1976年)です。

付き人としてそばで学んだ時間が、のちの笑いの土台になった

脱走や挫折もあった付き人時代は、遠回りに見えて、ネタ作りもドリフの空気も一番近くで学べた時間でした。そして、自分から動いて売り込んだ一歩が、喜劇王への扉を開いたのです。

参考

志村 けんの逸話一覧

イツワノ

© Shraddha. All Rights Reserved.