タモリが赤塚不二夫宅に居候した伝説|本人が語る「居候のプロ」の流儀

福岡から東京へ、そして赤塚不二夫との出会い

タモリは早稲田大学を中退して福岡に戻り、会社勤めをしていましたが、1975年、お笑いの道に進むために再び上京しました。
東京では、ジャズミュージシャンたちが集まる新宿のバーで、デタラメな外国語などを披露して評判になります。その芸を見に来た一人が、漫画家の赤塚不二夫でした。
上京のきっかけは、その芸を見たがった店の客たちがお金を出し合い、新幹線の切符を送ったことだったそうです。
東京新聞の記事によると、1975年8月に新宿のバーでタモリの芸を見た赤塚は、「君は面白い。お笑い芸人になれ。今月の終わりに僕の番組があるから、それに出ろ」と言って、自宅マンションに住まわせたと伝えられています。

本人が語るところでは

この居候時代について、タモリは2022年10月、ニッポン放送のラジオ番組にゲスト出演した際に、自ら語っています。本人が語るところでは、赤塚は目白にマンションを持っていたものの、仕事が忙しくて帰れず、ずっとアトリエに泊まり込んでいたそうです。そのため部屋が空いていて、そこに置いてあったベンツのスポーツカーも、乗ってよいことになっていたといいます。
さらに、赤塚からたまに電話がかかってきて、「酒あるか?」と聞かれ、「あんまりないですね」と答えると、酒屋が来て友達も集まり、どんちゃん騒ぎになった、というのです。

「居候のプロですから、私」

タモリの居候ぶりは、まさに堂々としたものでした。本人はこう振り返っています。

「居候のプロですから、私。プロとしてはへえへえしちゃだめ。偉そうにして、当然お金ももらうし、ベンツも乗るし。お礼はしないですよ。向こうも居候を置いてるプロだから。プロ同士の対決ですから」

もっとも、居候の途中で、赤塚がアトリエで、ロッカーを横にした上に布団を敷いて寝ていたことを知り、「マンションもベンツもあるのに…」と申し訳ない気持ちになったそうです。それでも、「そこで折れるようじゃ、居候のプロじゃない」と、あくまでタモリ流の語り口でした。
呼び方も、最初は「先生」だったのが、途中から面倒になって「不二夫ちゃん」になったそうです。

居候時代に生まれた芸と、デビュー

居候生活の中で、毎晩のように飲み屋で宴会を繰り返しながら、タモリはインチキ外国語を駆使した「四カ国麻雀」などのネタを磨いていきました。そして翌1976年春には、レギュラー番組も始まったと東京新聞は伝えています。
それから30年以上が過ぎた2008年8月7日、赤塚不二夫の告別式でタモリが読んだ弔辞は、「私も、あなたの数多くの作品の一つです」という結びとともに、大きな話題になりました。この居候時代があったからこそ、あの言葉には重みがあったのでしょう。

「そこで折れるようじゃ、居候のプロじゃない」

ここで紹介した内容は、あくまで本人が語った回想であり、小遣いの金額など細部は、資料によって異なる場合があります。それでも、赤塚不二夫の懐の深さと、タモリの図太さが伝わるエピソードです。

参考

タモリの逸話一覧

イツワノ

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