尼子経久は正月の舞に紛れて月山富田城を奪い返した?「鉢屋衆」の奇襲伝説と史実

出雲の戦国大名、尼子経久(あまご つねひさ)。毛利元就らと並ぶ「謀将」として知られる経久には、正月の祝いの舞を利用して城を奪い返したという有名な逸話があります。

守護代の座を追われた経久

出雲守護代となった経久は、主家の京極氏や幕府の命に従わず、税の上納を怠るなどして力を伸ばしました。その結果、文明16年(1484年)、幕府などから反発を受け、居城の月山富田城(島根県安来市)を追われたとされます。

元旦の「千秋万歳」に紛れた奇襲

江戸時代の軍記物『陰徳太平記』などによると、再起を図る経久は、祭礼や正月に芸を披露する芸能集団「鉢屋衆(はちやしゅう)」の頭目、鉢屋弥之三郎を味方につけました。月山富田城では毎年元旦に、鉢屋衆が「千秋万歳(せんずまんざい)」という祝いの舞を披露する習わしがあったのです。

文明18年(1486年)の元旦、烏帽子や素襖をまとった鉢屋衆が太鼓や笛を鳴らしながら城に入ります。城の人々が舞に見入っているすきに城内各所へ火が放たれ、それを合図に鉢屋衆は装束を脱ぎ捨て、隠していた武具で襲いかかりました。城主の塩冶掃部介(えんや かもんのすけ)は自害し、経久は城主に返り咲いたと伝えられています。

一方、現代の研究に基づく見方として、次のような指摘があります。

守護代の職を追われたのみであり、出雲に在国したまま一定の権力は保有していた(Wikipedia「尼子経久」より)

実際はどうだったのか(諸説あり)

ただし、この劇的な奇襲は軍記物の記述で、一次史料による裏付けは乏しいとされています。経久は守護代職を追われただけで、出雲にとどまったまま一定の権力を保っていたとする研究もあります。実際、長享2年(1488年)には出雲の国人・三沢氏を攻めて降伏させており、力が衰えていなかったことがうかがえます。追放の有無や城を取り戻した経緯については、現在も諸説あるのです。

史実かどうかは別として、「祝いの舞が奇襲に変わる」話は経久の謀将ぶりを象徴する伝説になりました

その後の経久は出雲を足がかりに勢力を広げ、のちに「十一州の太守」とまで称されます。月山富田城を舞台にしたこの逸話は、知略で道を切り開いた戦国大名のイメージとして、今も語り継がれています。

参考

尼子 経久の逸話一覧

イツワノ

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